「新しい職場で派閥争いに巻き込まれうんざり…」僧侶が教える"火種"のうまい消し方(プレジデントオンライン) https://news.yahoo.co.jp/articles/a81662291fc86002e6feffa305f1a5a1c94b9727
中間管理職養成の講師を務めていた頃…
この記事における内容はほぼ網羅してお話した記憶があります。
それは仏教としての基本であり、また社会生活における困難打破への有力な思想でもあるからです。
さて、では何故この基本的な内容が2500年を越える長い時間を経て伝え継がれてきたのでしょうか。
それは、人はこれらをなかなか素直に実行に移せない生き物だからです。
そこに介入する思念が「我(が)」!しかもその我でも仏を中心とする我から自分を中心とする我まで幅ひろくあり…苦しみの基となる我とは自我の目覚めの言葉の如く、苦しみの因を自ら得ろうとするのです。つまり、原因は我(われ)にありってことですね。
自分というものがない境地を無我(むが)。無我夢中とはそこに我を無くして集中するということで、これは方向次第ではやはり善くも悪くも猛スピードで進みます。
無我を超える境地が仏と我を同一にする入我我入。仏が我に入り、我が仏に入るということで、密教ではここをとても大切なこととしております。
さて、先ず修行の第一歩としてこの自我を無我にするということにトライします。これが「修行」なのですよ。これが半端ない修行!!
イエスマンではありませんよ、ダメなものはダメ!でも、ダメの意味を理屈っぽく語るのではなく、先ずは「ハイ!」。そして、正しい方向に導くが如くコンコンとひたすら地道にそのダメを姿形を変えて伝え続ける。相手がわかるまでひたすら、自分を滅して。
よく言う「言ったってダメだよ、そういう人だから」ってのは自我でも無我でも仏道でもなく、諦めか放棄。これこそイエスマンの本質です。
客観的に見定めてますか?
時間をかけて口説いてますか?
自分をコントロールできてますか?
ギターの弦は、緩くてもキツくても本来の音色を出しません。
仕事は仕事として真摯に取り組み、必要ならば思い切って休む。周りが騒がしいならそっと佇み、周りが緩んでいたらグッと引き締める。
そこには自分の考えではなく客観的な状況判断が存在します。
そして、常に人当たりが柔らかで笑顔。
私が中間管理職に求める基本的スタンスは仏道にあります。
仏道は組織論、社会論、人生論の宝庫であります。
僧侶になれとは言いませんが、この道を学ばないのはとても勿体ないと心から思います。
心が苦しい時、前が見えない時、ブッダ(お釈迦様)の人生がとのようなものだったのかを、本などでちょっと読んで見てください!
組織の中の問題解決方法も、そっと忍ばせてあるかもしれませんよ笑
今日はここまで😀👍