『勝ちを見るに衆人の知る所に過ぎざるは善の善なる者にあらざるなり
戰い勝ちて天下善しと曰うも善の善なる者にあらざるなり
故に秋毫を舉(あ)ぐる多力と爲さず、日月(じつげつ)を見るは明目と為さず、雷霆(らいてい)を聞くは聰耳(そうじ)と爲さず
古の所謂善く戰う者は勝ち易きに勝つ者なり
故に善く戰う者の勝つや、智名無く、勇功無し、故に其の戰は勝つこと忒(たがわ)ず
忒(たが)はずとは、其の措(お)く所必ず勝つなり已に敗るるに勝つなり
故に善く戰う者は、不敗の地に立ちて敵の敗を失せざるなり
是の故に勝兵は先ず勝ちて後に戰(たたかい)を求め、敗兵は先ず戰いてる後に勝を求む』
勝利というものに対して世間的(一般的)な考えの人と同じ程度の読みで事を薦めるのは最善とは言えない。
(とは言え)戦いに勝てたからといって世間が「さすが」と誉め倒すような勝利は最善の勝ち方と限らない。
細い毛をつまみ上げたからといって力持ちと言いますか?太陽や月が見えたからと言って目がいいと言いますか?雷が聞こえたからといって耳がいいと言わないでしょう?
昔から戦上手ってのは普通の人では見分けられないような好機(チャンス)を捉え、勝ちやすい状況で勝つべくして勝つのだ。
戦上手の勝利には、巧みな計画においても勇敢さにおいても、派手さは無い。地味だ。そういう者が戦えば必ず勝つものだ。
というのは、その者はすでに(戦略的かつ戦術的に)負けが決まった相手に対して戦いをしかけているから。
戦上手は味方を絶対に負けない不敗の位置に置き、それから敵の隙につけこんで攻めるのだ。
故に勝利する軍隊は戦う前にまず勝つ条件を整えてから戦いを始め、負ける軍隊は戦いを始めてから勝つことを求めるのである。
【孫子の兵法(形篇)】
私がこの上無く好きな孫子の兵法のひとつです。
太字のところが事務所コンセプトでもあります。本気で求め続けて早何年?笑
挫けること多数、迷うこと多多数、再チャレンジ多多多数!笑笑
中間管理職ってやつも、だいたい一緒でそんな感じ。地味で良し!地味が良し!
でも、それもまた良い眺めだよ!
喜んで地味に生きよう!その生き様って、結果派手っす!
今日はこれまで!